7.08.2010

外国語教育

今日の日経社説に英語教育ついての論評が載っていた。楽天の三木谷社長のTwitterなんかもフォローしていると社内公用語を英語にと発表してから少し経つのにまだフォロワーからのコメントが絶えない。妻も幼児英語教育に携わっているが、興味のある親が絶えないようだ。

英語が必要なことは間違いない。一方で英語がしゃべれれば良いかといえば、そう言うものではないと思う。自分は少なくとも仕事で困ることはないくらいには英語はしゃべれる。ちなみに帰国子女でも何でもないが、新卒の時に英語のしゃべれない日本人の学生を採用してくれた英語が共通語の当時のチームが鍛えてくれた。いま思うと本当にありがたかったと思うが。でも今、英語がしゃべれる日本人として世界どこに行っても認められるか、というと多分そんなことはないと思う。なぜか?

一つには勿論自分の語学力の限界があることも十分に承知だが、そもそも論として日本人である自分とこれから伸びる新興国市場からの人材と、仮に能力差が多少自分の方が上であったとしても、人材という比較的長期の投資において、賢明な投資家はどちらに投資を行なうか?そういう質問を投げかけられ冷静に考えると、残念ながら勝算は良いところ3割くらいか?

もちろん実際の採用現場においては、より個人の資質に重視した判断が行なわれるので、個人で頑張るしかないのだが、効率的な人材調達のためにはスクリーニングが行われ、日本人は今のままだとその時点でふるい落とされる可能性が高い。つまり日本人にとっては活躍の機会自体がどんどん少なくなってしまう。

その議論は本来であれば語学教育をどうするか、という技術的な話より前に、語られなければならないのにも関わらず、自虐的にもなりがちな議論を避けたいのか、あまりおおっぴらに語られることが少ないような気がする。技術的な問題にのみ着目するから、昨日はこれからは中国語だといい、今日は英語だという。外国語はそもそも要らないという考えだってあるはずなのに。例えば1980年代の日本は強かったからオーストラリアの高校で日本語教育が進んだりしていた(今は不明。。。)。また事実上未だに世界最強のアメリカ人は都市部の一部を除き英語以外の言語をしゃべれる人はほぼ皆無だろう。(または母国語しかしゃべらない移民か)

先日の発達心理学セミナーでもあったが、本来人間のポテンシャルとしては語学は数ヶ国語程度であればどうにでもなる。環境さえ整えば。自分の英語だって結局は環境だった。

こんな話もある。大阪に転勤となった関東人が帰って来ると、おいおおってくらいに関西弁になってたりする。でも笑いのセンスは関東だから関西人による関西弁の話と比べてちっとも面白くない(笑)。

長くなったが、英語だ何だという議論も良いんだが、その前に日本人という素材を売れるためのプロモーション方法を考えることがはるかに重要なんではないかと思う。あとは必要な外国語があれば、それをその言葉を母国語としている恋人でも作れば3ヶ月でどうにかなるだろう。。。

ちなみに妻が幼児教育に携わっているのでフォローしておくと、自分の観察によると、まだ保護を必要としている幼児が外国人の保育者に育てられることには語学の習得という意味においては恋人と同等の、もしくはそれ以上の効果がある。最近は息子の通う保育園でも週に一度は外国人が保育に参加するらしい。そのせいか?最近息子は、"milk, please"と言うようになった。

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