10.27.2009

30年間で得られたもの、そして次の30年間は?

10月16日に30歳の誕生日を迎えて、人生を90年だとすると、まぁそこまでは生きないとは思いますが、とりあえず最初の3分の1を終えました。そして真ん中の3分の1に突入しました。

最初の章で何を学んだか、それを一言で言うと、「おもいやり」です。

では自分の今までの人生では自分はおもいやりに溢れていたかというと、実は全くそんなことはなく、むしろ「俺様」色の強いわがままな日々を送っていたと思います。しかし最近気が付いたのです。若さゆえの、そして激しく傷付くことを恐れるがゆえの、自分の内面、他人の内面の声に耳を研ぎ澄ますことからの逃げが、鎧となり自分自身にあえて「楽観主義者」の称号を与えることで、知らず知らずに現実をありのままに受け入れることから逃亡していたのではないかと。

人はもっと苦しみや悩みを抱えて生きている訳であって、それら痛みと正面切って直面することで、初めて本当の意味での強さを得るのだろうと。そのことに30直前になって初めて気づくキッカケがあって、そして初めて今まで築いていた虚無(虚夢)の世界が本当の世界ではないことに気が付いた。

挫折がない、という極めて高慢な、そして結果的には嘘の、悩みが今までは悩みでした。

悲観的な見方を軽蔑し、楽観主義がこの世を制すると思い込んでいました。

しかし本当は、挫折がなかったのではなく、自分の体に嘘をつくことで、挫折から逃げてきたのであり、悲観をあえてココロの彼方へ追いやり、無理矢理にでも肯定を前面に持ち出すことで、痛みの少ない非現実的な世界へ逃げ込もうとしてきただけでした。それを今、告白します。

幸いなことに、単に運が良かっただけで、大きなミスがなく、今ある幸せを手にすることが出来ています。そのことには純粋に感謝の気持ちを抱き、自分の人生を支えてくれている人や社会に、ありがとうの気持ちでいっぱいです。しかしこの次の30年間、今までと求められることが大きく変わってくるであろうことを考えると、今までと同じように尖っていてはいけない、そう強く感じています。

ひょっとすると、ちょっと遅いのかもしれない。10代、20代で逃げてしまったものからは、もう得たいと思ってもこちらから追いかけて行くことは出来ません。そういう意味では本当は学んでおくべきであったことを置き去りにしてきてしまったのかもしれない。

しかし人間には想像力という力が備わっています。つまり実際にそれを経験しなくても想像によって、それがどんなものなのかを感じ取ることが出来るのです。そしてその想像力を駆使してあげること、そのこと自体がまさに「おもいやる」ことなんだろう、と最近になってようやく気が付いたのです。

自分は、ある一面では確かに純粋に楽観的なんだと思います。なので、そのことに気が付いていなかった最初の30年間のほとんどを悔いるよりも、次の30年間に入る前に、それに気付いて良かった、と思うことが出来ています。この持ち前の思考回路の良い面にはこれからもお世話になりつつ、もう片一方ではおもいやりを持つことで内面的な拡がりであったり、より深い人との繋がりを築いて行くことができれば良いと思っています。

鴻上尚史の「孤独と不安のレッスン」という本を読みました。ある意味自分が逃げてきた部分を指摘してくれる有難い本です。逃げてきた故に、正直分からない部分もありますが、何回か読んでみようと思います。そうするうちわかることが増えてくると思うので。

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