9.19.2010
9.18.2010
子供の教育
今日は、うまれて初めて幼稚園の入園説明会に参加してきた。近所のカトリック系の幼稚園だが、意外に質素。というのも、自分も幼稚園は某修道会の附属だった。おそらくそこは潤沢な資金があったのだろう。うちの近所の幼稚園も有名な修道会系なのだが、園長先生から一番最初に母体は一緒なのだが、小学校とは一切関係ない、とお受験狙いへの牽制が入る。知られた話なのだが、実は関係あるんでしょ?的な質問が多いとみられる。
その後、園長先生の教育方針についてご説明があった。基本的には子供を教育する上での基本である心身のバランスのとれた成長を促すための話であったが、2つポイントがあったとすると、結果ではなく努力の過程を褒めてあげること、そしてルカの福音書から「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」という一節を引用され、神から与えられたギフトへの感謝の気持ちを通じた他者との心の交流、ということだったと思う。
肝心なのは親の子に対する教育の方針と合致するかどうかだ。幼稚園ではこう、家ではこう、では子供も混乱するであろう。幼稚園でもこう、家でもこう、でないと。
うちはどうなんだろうか?非常に難しい。親の願いとして思うのは、小さな男にならないで欲しい、ということだ。そして常に前向きでいて欲しい。そうすれば、あとは自律的に育つ子になると信じている。
カトリックを軸とした指導では、自由と規律のバランスの上では、まず規律から入る、と思われる。特に幼児時期では、社会性を得るために重要ではあるが、バランスが一番心配でもある。小さい子供にとって、神様の存在感は絶大なものがある。ただ、それが故に、神様の存在を限界点として、思考を止めて欲しくはない。神社で悪事を働いた福澤諭吉くらいであって欲しいと思う。
ただ身につまされるのは、園長先生もさりとて親の背中を見てしか子供は成長しない、と仰られた。その通りなのだろう。どんなに忙しくとも、子供はしっかり見ているし、自分に愛情が向けられているかどうかには、非常に敏感だ。それを親としても自覚しなくては、と改めて思った。
考え方によっては、幼稚園に入れなくても良いのかもしれない。そのかわり、親として子供にどのような教育をしてあげられるのか、をきちんと再考した上で、この子なりの教育メソッドを構築してあげなければならない。
9.15.2010
何かがおかしい、何かが・・・
情けなくも最近よく目にするこの類のニュース。
asahi.com(朝日新聞社):「18人を1日3人殺したら」小学校教諭、割り算で出題 - 社会
そもそものこの教諭の資質については別の議論に譲るとして、この記事、ちょっとよく読んでみると、実際に問題となった授業が行なわれたのは5月中旬、保護者が市の教育委員会に連絡したのが7月12日。このタイムラグの中で、校長、担当教諭、保護者の間できちんとした話し合いなりが行なわれなかったのか?校長は事態をきちんと収拾できなかったのか?本来は校長から教育委員会への報告、という手順なのではないのか(←これについては不明。だけど普通の社会なら下から上へのホウレンソウが基本。)?本当は収拾したつもりが、親の中にクレーマーがいたのか?
何かが狂っている今の日本の社会の縮図が愛知県岡崎市で繰り広げられている。。。
また、この類の報道も、結局右から左に流れていってしまう。何がおかしいのかを特定できる前に、また次のおかしな事件が起こっている。。。