12.22.2011

今日の夢日記

ストーリー

地球環境崩壊だか宇宙人襲来だかで、必要最低限の物・家族を守りつつ、カプセルに乗りやっとのことで地球を脱出。逃れ、到着した場所は、灰色の壁に囲まれた巨大な四角い「部屋」。同じ境遇にある他の人達、数十人だけからなる小さなコミュニティがそこには形成されており、そこで暮らすこととなる。

ところが、それ自体が、姿の見えない謎の支配者による謀略だと言うことが分かる。なんとコミュニティからそれぞれの妻だけは閉ざされた「部屋」から地球との間を往復し、仕事をする事が許され、家族を養っていくことになる。

それがうちだけではなく、そのコミュニティにいる他の家族も同様の状況である事が分かる。こうして妻を仕事に送り出し、閉ざされた空間で子育てを行なう夫達の奇妙な共同生活が始まった。

走り回りお腹を空かせる子供達、社会からの隔離、妻の帰りを首を長くしてただ待つ時間。こうした閉塞感から、ついに男達は立ち上がった!

というところで夢から醒めた。何だったんだろう、、、と思ったと同時に、ひょっとすると、これって実は家庭に入った女性が抱える気持ちの擬似体験なのでは?と思った。先の見えない閉塞感に苦しむ夢だった。

結構、我ながら話として面白いから、誰か映画化してくれないかな、俺の夢。。

9.01.2011

イギリスの暴動と韓国製ヘッジファンド

聞いた話をベースにしてますので、自分自身による知識ではありません。間違ってるかもしれませんが、面白いなぁと思った話があったので、忘れないうちに記しておきます。

イギリスの暴動と韓国のヘッジファンド育成について、一見違うこの2つの話題ですが、実は共通点を見出して行くと面白い事例研究になるかもしれない、という話です。

マクロ的には、勿論イギリスの方が(かつての)先進国の雄ですので、大きいですが、市場構成要素として見た場合の地政学的要件では、実は似通っているかも知れません。イギリスは島国で韓国は大陸と地続きですが、物理的な距離を見たときに、日本も島国ですが、むしろ韓国の方が東アジア地域における大陸との関係性で言えば、イギリス的な位置付けに近いかも知れません。そうなると、比較研究がしやすいかも。

どちらも国内に資源は乏しく、イギリスは北海の油田が一応ありますが、産油国としては一般的には見られていない。それを考えると経済成長はクロスボーダーでモノ・カネ・ヒトを動かす事で、活性化するしかない。

イギリスで実際にそれをやったのが、サッチャー政権時代の金融ビッグバンで、その後ロンドンは一時期、金融市場の発展により潤いました。しかしリーマンショック以降長期トレンドとして続くレバレッジ縮小の流れは金融業にとってはマイナス要因になる一方で、他の主たる産業が軒並み滑落していったが為に、実質金融業だけが国の産業となってしまっています。その金融業もウインブルドン現象と揶揄されるように、基本的には国内発祥ではなく、ノウハウを外から持ってきているだけの形となっています。つまり、イギリス自体に競争力がある訳ではなく、大家さんとなってみんなに家を貸していただけ、という形に実質はなっていました。ところでポンドの下落や5%代のインフレにより、低所得者の生活水準は悪化を辿る一方。中堅層から高額所得層には重税をかけるも、福祉政策も手一杯になりつつもあり、社会全体の不満が溜まり続けるという最悪な方向に向かっている、とも見られるようです。その一つに、東ヨーロッパなどを中心とした移民流入があるかもしれない、との見方もあります。特に非アングロサクソンからの視点では、なかなかそれが目立つとも。先日起きた暴動騒ぎなんかも、イギリスで一体誰が?と私なんぞの素人は最初思いましたが、低所得者層にそういった人達が多い様です。EU域内であれば比較的ヒトの移動も自由です。しかも福祉政策の一環で、今イギリスの公立病院では出産費用が無料だとか。これを目当てに移って来ている人も結構いるのでは、との見方もあるようです。その人達がそのまま雇用され、経済成長の推進力となってくれれば良いのでしょうけれども、上記の産業酵素の問題もあり、一部の特殊なスキルを持った人以外には、厳しいマーケットとなっている様子。一方、スキル創出を行なうための教育ですが、財政難の為に大学授業料の値上げが行われた上、かつてのように教育ローンも組みにくくなっている、という多重苦に悩んでいるとのことです。ヨーロッパと言えばまずPIIGSの問題に着目されがちですが、ひょっとするとイギリスも相当フラストレーションが溜まっている状態なのかもしれません。

さて、韓国ですが、製造業を中心にして、アジア危機を脱却し、ここ最近成長を遂げて来ました。イギリスとの違いで言うと、金融資本の積み上げではなく、貿易に依存して成長してきたところでしょうか。イギリスがヒトとカネを軸にしていたのだとすると、韓国はモノの輸出を軸にしてきました。しかも最近はノウハウの輸出を国策としても掲げている様で、非常に急ピッチでトップダウンにより動いています。昨今の原子力技術の輸出であったり、金融の話題でいけば冒頭の件ですが、国策としてヘッジファンド育成を掲げている様子。それもdomicileとしての育成を考えているようです。その為、欧米の大手ヘッジファンドも軒並み韓国詣でを続けている状態だそう。ここでの課題は、早く技術を自分達の物とすべく、ノウハウの構築に躍起になっているらしいです。韓国の場合、というより東アジア地域全体の場合、と言った方が良いかも知れませんが、イギリスの置かれている状況とは違って、カネ・ヒトの国境を越えた移動によるモデルは、開放されきってはいないが為に、非常に限定的です。一方で韓国はヒトの輸出に関しては、とても熱心です。教育熱も高く米国などに子女を留学させる話は有名ですし、KARAや少女時代なんかを見ても明らかで、最初から海外市場を狙った戦略が取られています。ところが儒教の影響が強いせいだと思いますが、家父長的な色が濃いので、大韓民国の旗の元に不思議と強く纏まり、霧散していかない強さがあります。ここら辺、日本が失っている強みなのかもしれませんが。

こうして二国を比べてみると、何やら見えてくるものが出てきたような気がします。

共にグローバライゼーションの恩恵を受けて発展をしてきた二国ですが、知識の構築、蓄積の仕方の違いが生み出す成長モデルの違いは、非常に興味です。勿論どちらが優れていてどちらが劣っているか、という議論をここでするつもりはないですが、これからクロスボーダーを軸とした成長の絵を描く際には、この2つの例をよーく見た方が良いだろうなぁ、と、こう思っている訳です。企業レベルでの戦略構築でも、少なからず役に立つ比較事例なのではないか、と感じます。

ただ不勉強で書いてますので、事実の誤認識等もあるかもしれませんので、頭の体操を超えないかとは思いますが、念のため。。

8.20.2011

Next big thing

From Evernote:

Next big thing

ここ最近読んだ本や記事の中で感じたことを忘れないうちに記録しておかなければ。。。まだ考えとしては全く整理されていないので、ほぼ備忘録のような形になる。

まずは水野和夫と島田裕巳の資本主義2.0、スティグリッツのグローバリゼーションにおける外部性の議論、ブロガーイケダハヤト氏のソーシャルからパブリックへ、そしてマイケルサンデルの正義論。これらはみんな繋がっていて、言い方は違っていても、情報技術が今までの前提を大きく覆した結果発生したグローバリゼーションは国家と資本主義を中心とした近代社会のルールをぶち壊し、集積された一握りの資本が人々の生活を左右してしまう世の中に変わりつつある中で、人々が幸せを得ていくためには何が必要なのか、というテーマを宗教、国際金融、ソーシャルメディア、公共哲学などの切り口からそれぞれ解決していこうという試み、として括ることが出来そうだ。

次の時代を生き抜く為に必要なことは何だろうか?

5.30.2011

simple but essential

実はもっとシンプルに考えれば良いじゃないか?ということが最近良くある。でもシンプルに、という言葉の裏側には、本質的に、という意味も入っている。よく日本の武芸なんかに良くあるけれども、究極的に無駄を排した型の中に全てが詰まっているようなイメージ。


例えば身近な話で言うと、最近はまっている近所のマッサージ。足師なる人の教えを、純粋に聞き入れているのだけれども、かなり理にかなっている。足裏という狭いエリア発の身体の調整。しかしよく考えると、この重い身体を日々支えているのは、このわずか26、7センチメートルしか長さのない足裏であり、ここが全てだとも言える。実際、自分の身体のアンバランスさを足裏の様子を見て全て見抜かれたし、その根本的原因となっている両足の親指の付き方の指摘は見事だと思った。そして今必死に足の親指の付き方改造に励んでいる。笑

仕事。一流と呼ばれる仕事をする人になりたくて、そのために色々な背伸びも含めてしようとしてきた。でも、自分の中で一流のベンチマークと言えばイチローと決まっているのだが、5月不調なのは寂しい限りだが、しかし彼もストイックなまでに単純な動作の繰り返しを行なっている。名プレイヤーは名監督にあらず、という言葉もあるが、名監督は凡プレイヤーの集団を采配しなければならないからであり、名プレイヤーはプレイヤーであり続ける限りは名監督を凌ぐ。そして彼がすごいのは、彼の才能が決して先天的なものではなさそうなところだ。これは誰にとっても希望が持てる。誰もが一流になる可能性があるのだから。イチローは、難しいことを色々考えてきたのだろうか?そうではない気がする。やはりバットを振る、という単純な動作の中の本質を見抜く作業を積み重ねてきたんだろう。そう信じたい。

人間関係、それも特に結婚。今日の自分自身のtweetからだが、
震災後、結婚を考える人が増加との報道、危機対策の一環だとか。でも人間って痛みは忘れやすい。結婚をヘッジ手段として見ていると、いつかコストの議論が必ず出てくる。だから結婚はやっぱり長期的なメリットの獲得手段としてみないと間違える気がする。
(続き)結婚で得られる長期的なメリットが薄れてきているのが現状。特に昔は家制度が生活を支える手段であり結婚は不可欠だったのが、今やそうではない。子供を(社会的な偏見を受けずに)作るための手段として結婚は残っているけれども、安心して子供を育てようとするとコストデメリットが大きい。
(続き)夫婦別姓問題とか子ども手当などの少子化対策とか、小手先だけの安易な議論もあるが、文化としての結婚制度の存在は大きく、やっぱりそもそも結婚することによるメリットやそれを支える保障の在り方自体を現代流に見直す議論がないと一過性のものに過ぎなくなってしまう気がする。
最近すごく思うのは、結婚することで他人同士が分かり合う、なんていうナイーブなことなど、普通はあり得ない。だからこそ10年、20年、30年経った後でも離婚する人達がいるわけだ。お互いの価値観のすれ違いを理由に。ただ、そもそもお互いの価値観が揃うことなんて、ほぼあり得ない。全く同じ価値観を持っている人間なんているのを探す方が難しい。もちろん、人間を4種類くらいに分けたときに同じ象限にいるくらいには価値観が近い方が色々な不便はないだろうが、それでも長年一緒にいても驚くくらい違う考えだって相手は持っているし、この先も持って行くだろう。それでも結婚を続ける理由は明白で、相手と一緒にいることに大いなるメリットを感じているからだ。そして相手にもそれを感じてもらう必要がある。その互恵関係の究極の形の一つが結婚なんではないかと思う。

結婚は不便だ。ある程度の自由も奪われる。しかし、それでもなお続ける理由は、ただ一つ、そこに長期的なメリットがあると感じられるからだ。

身体も、仕事も、人間関係も、何もかも、そこには単純な、それでいて本質的な真理が眠っているような気がしている。それに気がつくと、その周りにある無駄、一見すると冗長なことも、楽しめる余裕が出てくる。自分はまだ若輩者なので、今はただ本質の追求をただ勤しむばかりで、冗長さを楽しむ余裕などないのだが、ただ世の中のそんなトリックに最近気がついただけで、ちょっと色々なものの見え方が変わってきた気がする。



ちなみに結婚生活に行き詰まったわけではありません。時には波高いこともありますが、天気は良好です(笑)。

5.08.2011

2011 GW Holidays in New York

P1000478P1000441P1000482P1000486P1000571P1000581
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P1000744P1000746P1000748P1000749P1000750P1000765

It was good vacation with my families and friends. The weather was nice except the last Wednesday when we got wet in the city.

I did not know Cherries in Brooklyn Botanic Garden were so great, though they got green leaves already. The sakura festival took place in the previous week.

3.16.2011

My thoughts on Day 2

ひさしぶりにブログを書く。やはり未曾有の大惨事が起きた今、何を感じ、何を思うか、残しておきたいと思う。

まずは2011年3月11日に東日本を襲った大地震によって失われたたくさんの命の冥福を祈りたい。自然の猛威の前に、何も手だてなく一瞬にして数多の人生が幕引きを余儀なくされてしまった。

これまでも世界中に沢山の悲劇があった。記憶も鮮明な中ではニュージーランドの地震、インドネシアのスマトラ島の地震そして津波、四川大地震、新潟、阪神淡路島など。しかし、今回個人的にここまで影響があるのは、同じ地震を東北地方ではないが東京で、それも今まで東京では少なくとも自分の人生の中では感じたことのない程の大きな揺れで体験したことは間違いなく関係している。勿論、東北地方の被災者が味わった恐怖からすれば、その感覚は限定的だ。しかし混乱をリアルタイムで共有し、しかも揺れがおさまったあとすぐに確認したテレビの画面の中で、さっきの揺れが起こした今まで見たことのない規模の津波が船や車、そして家屋を押し流している様子を見るという臨場感が、被災者への共感に少なからず繋がっている。そしてこの時は何故か若干の罪悪感に似たようなものを伴って。

週末を、余震の警報に怯える子供と妻と、電気を節約しながら過ごしながら、テレビを通じて被害の甚大さを知ることになった。尋常ではない被害を。そして週明けには錯綜する情報にパニック寸前の首都圏にいて、今まで考えてもみなかった「今そこにある危機」に立ち向かうための対策に追われる。でも常に脳裏からは被災地のイメージが離れない。自分は今ここで何をしているのだろう?別の自分がそれを問い続けていた。

運が良かった。それ以上でも以下でもない。あの瞬間に、どこにいたか。それだけで、生死は隔てられてしまった。もし、もしはないのだけれども、もし、被災地が東京だったら?もし、自分が愛する人や物を失っていたら?もし、死んでしまっていたら?考えたらキリがないし、考えても仕方がないこともわかっている。むしろ、比較的安全な場所で想像に浸っているだけだからこそ、さっきの罪悪感に繋がってしまっているのかもしれない。

世間では買い占め行動が一部に見られ、一部の煽動的な情報により不用意な混乱に繋がる行動に出たりするなど、おおよそ自制的な状態とは大きくかけ離れている。次は自分か?そんな不安感から、誰もが不安定な精神状態にさらされている。そして引き続き困難な状況は続くだろう。混乱の最中で、まるで激流に浮かぶ木の葉と同じように、右にいったり左にいったり。でも沈まずに行けるかなんて誰にも分からない。

残念なことに状況が良くなる気配は今のところ感じられない。ひとつ片付けても次から次へと新たな試練が出てくるようだ。でも、今までがそうであったように、いつかはこの瞬間を振り返ることが出来るはずで、そのことを信じるしか出来ない訳で、ならば今ここにいる人間が、そこにいて出来ることをすれば良い。なるべく普通のことを。いつも散財している放蕩な輩は、今こそ思う存分遊んでも良いのかもしれない。

そのためにはまず、あの罪悪感に似た気持ちを拭い去りたい。本当に不運なことに、命を落としたり、大切なものを失ったりした人々がたくさんいる。そういった人々に罪は何もなかったのと同じように、被災地にはおらず直接的な被害に合わなかった我々にも罪などない。普通に今までの生活を、困難な状況に陥ってしまった人たちへの思いやりの気持ちを過剰でない範囲内で持って、過ごしていけば良い。必要な時に必要とされるだけの手を差し伸べることが出来たら、それで良いのではないかと思う。必要な時は、思いやりの気持ちを持ってさえいれば、その時はその時だと分かるはず。

そのことを語りかけることの出来るリーダーが欲しい。国レベルで、地方レベルで、業界レベルで、会社レベルで、友人レベルで、家族レベルで、そして自分自身の中で。そのことが出来たなら、きっと日本は立ち直るし、今までよりももっと良くなる。まず悲壮感と罪悪感に区切りをつけて、笑うところは笑い、泣くところは泣き、我慢するところは我慢して、そして前向きな力を、ひとりひとりのレベルで。


大好きなドリカムの曲、「その先へ」から、最後の一節だけ。

人生の意味なんて知らない 開き直りでも何でもいい
眠れない夜の 悲しみの海の 出口の見えない暗闇の その先へ

跳べ! その先へ 跳べ!