2015年3月11日
少し長くなりそうなので、久々にブログを使って物を書いてみようかと思う。
2015年3月11日はニューヨークで迎えた。東日本で大惨事が起きて、電車が止まって歩いて帰宅していたであろう頃から、きっかり4年後、地球の反対側で歩いて会社に向かう自分。周囲の人に紛れて、きっとこの人たちは4年前も同じように同じ場所で歩いていたのではないかと想像する。暗闇の中で助けを求める何百万もの人がいたであろうちょうどその時に。今日は、この中のいったい何人が3・11ということを意識しているだろうか?自分の半径百メートル以内にいるであろう数百人の人の中で、あの日起きた惨事に想いを馳せていたのは多分自分だけだろう。なぜなら、このニューヨークに生活する人たちにとって、それはあまりに遠い世界で起こった出来事であり、インターネットやテレビで見ただけのニュースの一つであっただろうから。それは消費されるものであり、蓄積されるものではない。一過性のものに過ぎない。仕方がないのだけれども、異なる空間で起こった出来事だから。共有は難しい。
一方、人間は共感することができる生き物でもある。想像力を駆使して、他者と共に感じることができる。また、他者に共に感じてもらえるよう働きかけることもできる。ただ、本当に共感を得ることはなかなか困難だ。自分が感じたものは、他者とは完全には共有できない文脈の上で生じたものであり、それを全て感じてもらうことは難しい。まして育ってきた環境や言語、文化、そして時代が違えばなおのことだ。そうしたフィルターは自然に出来上がってしまっており、偏りをなくして見る・感じる、なんてことは不可能だ。何よりも中立なものの見方、などというものは存在しえない。人間は、何か起こったことを、その人が持つ意味の体系の中に、相対的に関連付けて理解する以外に方法を持たない。その人が表現する何かが絶対である、なんていうことはあり得ない。
それでも人間は社会的な生き物であるから、他者から完全に孤立して生きていくことは難しい。好む好まざるをえず、どんなに孤独な人であっても社会の中に組み込まれており、その中で生きていくのが人間なんだと思う。みんな一つとして同じフィルターを持っていないにもかかわらず、他者と一緒に生きていかなければならない。なかなか大変だ、生きていくのは。ちょっとしたすれ違いや衝突を繰り返しながら、それでもできる限り近寄ろうと努力して日々過ごす。共感という能力を無意識に使って、自分と異なるものへの接近を図る。それが人間として生まれてきた以上の宿命だと思う。
ところで最近の出来事を見聞きすると、社会全体での共感力の弱まりを感じる。共感する=(イコール)同じ考えを持つ、という結論である必要はないにも関わらず、共感をしようともしない、想像力に乏しいような行動、発言を見聞きすることが余りにも多い。エクストリーミスト(過激主義者)が目立つ。また傲慢な人も多い。信じられないような凶悪な行為に出る人もいる。そして一番問題なのは、社会の最上層と最下層にそのような人たちが増えてきていることと、そういった事象に無関心である中間層が増えてきていることだ。社会全体が、共感を通じて他者と共に生きていく、という割と基本的な能力として人間に備わっているものが使われずに、流されている気がする。繰り返すが、共感をしたからといって、同じ考えを持つ必要はない。ただ共感は相手に対するリスペクトを生み出す。おもいやり、という日本語でも良い。リスペクトやおもいやりがあれば、異なる考え方を持つ人であっても共存できる。
世界で起こっていることも、日本で起こっていることも、ひょっとしたらもっと身近なところで起こっていることも、共感力を持ってすればうまくやっていける、と考えるのはあまりにナイーブだろうか?勿論共感さえすれば万事解決するなんてものではないけれども、共感することは人間にとって全てのスタート地点なのだと思う。スタート地点に正しく立てないのに、どうしてゴールにたどり着くことができるのだろうか?
冒頭に書いた東日本でおきた大惨事により、なお今も苦しむ人たちに自分ができることは残念ながら少ない。また、自分の立場で無理に何かをしようとしても、それは支援という名の消費をしているようで、結局は自己満足に陥ってしまうのではないかと思う。でも、共感することはできる。そして被災者の方たちに対する共感のみならず、色々な人たちに共感することはできる。それも自己満足と言ったら自己満足なのだけれども、ただ自分の周囲に対しては少しでも良い影響を与えることができるのではないか、と思うし、そこが今もこの世に生きている者として立たなければならないスタート地点なのだと思う。
少し襟を正して毎日過ごしたい。
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