8.04.2007

格差はあるのか、それが問題なのか

小泉前首相が「格差のどこが悪いんですか」と開き直ってから(日本共産党の記事)気付けばもう1年半。小泉路線の継続をうたった後継内閣は、くだらない身内のカネの問題で自爆する中、なんかイマイチ論点の分からない選挙だったなぁというのが率直な感想だが、そんな中またこういう本を読んでみた。

格差社会―何が問題なのか (岩波新書)

著者は経済学の視点から、効率性が高まることには賛成だが、トレードオフで公平性は低くなってしまう、つまり格差が広がってしまう。それは問題だ。しかし解決策はある。効率性と公平性は共存できる。というやや乱暴な理論の展開で「ヨーロッパ型」の高福祉型国家への道を提言している。しかしスウェーデンなんかは高福祉国家であるがゆえに巣食う病巣に悩んだりしているのもまた事実だ。まして、スウェーデンとは産業も環境も人口も全く違う日本で、その形はうまく行くのだろうか?

一部賛成できる提案もある。例えば累進的な消費税とか教育の拡充とか。でも最低賃金の引き上げとか脱ニート・フリーターのための対策とか、そんなのってただ後手後手に回るだけだ。また所得税の累進性を強める提案などもあったが、これだけボーダーレスになっている世の中だから租税回避の方法なんていくらでもある。意味がない。

一番問題なのは、バブル崩壊→失われた十年→構造改革→格差社会→改悪!というメディアや政治家に作り上げられたストーリーを思考停止したまま受け入れているこの世の中自体なのではないだろうか。経済活動が停滞して苦しんだ人は多かったのは事実だったと思うが、それは全員に降りかかっていた環境であり、そんな中既存の規制を取っ払った結果、一部の人間がそれによって何ができるかに気が付き、先に苦境を抜けていった。それを後出しのように文句を言うのは筋違いというものだ。

ただ余りにも教育の質、特に公教育、がひどすぎて、機会の平等を与えても、それに食い付けない人が出てきているのは事実だろう。機会があるのにそれを機会とすら認識できない人々が出てきている。そりゃ人間生まれながらに能力にばらつきがあり、同じ教育を受けたとしても出来不出来は出てくる。しかし、実は世の中を生きていくために最低限必要な能力って実はそんなに大したものではないのに、学校の教育が余りにもひどく使い物にならないから、ドロップアウトする人たちが出てきてしまうのだと思う。

格差の拡大傾向の一つとして、金持ちの親の子はさらに金持ちに、貧乏人の親の子はさらに貧乏に、ここまで露骨な表現はしてないけれども、正直著者はこの本でそう言っている。これは本当に拡大傾向にあるのか、それとも昔からそうなのか、それは良く分からない。ただ、親の教育水準と収入には正の相関関係があることに違いはない。生まれた子に罪はないわけだから、やっぱり機会の平等は与えるべきだと思う。

そうなると公教育の拡充は必須だ。また、相続税を高めるべきだ。親が築いた財産は親の物であり、子は少なくとも成人すれば、それを楽に手にするべきではないと思う。自分で稼いだお金は自分の代で使い切るか、財団なり会社なり何でも良いけれども、永続的なものに形を変えて、社会に還元するべきだ。そういう動きに対しては税制上の優遇を与えるなりするべき。自分の死後に残された家族には例えば生命保険とかでのカバーできる。また、残された人が普通の生活を維持できる程度のレベルに関しては相続税の控除枠を作れば良いのだ(現制度でもあるけれども)。

エキセントリックでしょうか?でもそうしていっても良いと思う。社会的な弱者は何らか守るべきだとは思うが、例えば障ガイを負ってしまった人と、ニートとは少し質が違うのではないだろうか?

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